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癌で母親が死んだ その後

ここ一ヶ月はかなり忙しなく動いており、詳細な記憶がありません。

色々と溜まっておりここらでいっちょ文字に起こしていきたいところです。あの時の気持ちを忘れないようにするといいますか、そんな具合です。

 

10月下旬に母親の肺癌が発覚しました。

家族のLINEで肺がんでした〜みたいなことを言っていたのですが、髪切った写真を上げたりしていたものの、詳細を報告しない辺り恐らく末期なんだろうなと察していました。

実際のところはいわゆる第四期であり完治は難しく、通院で抗がん剤治療とその他の治療を同時進行していく計画が立てられました。この話を聞いたの、嫁と婚姻届に判子貰いに実家に帰ったときです。寿司やらケーキやら色々くれたのですが、俺が肺癌の検査の結果ってどうなのと切り出すと、気遣い全一の母親が、言葉に詰まらせながら「日常生活はあと2ヶ月くらいで出来なくなるんだって」というような事を言い出したときは、平静を装いましたが、震える手でフォークをケーキにぶっ刺し、とにかく口にかっ込んでいました。味は覚えていない。帰りは嫁の運転で帰りましたが、涙が止まりませんでした。

とにかく母親のことだから、家族には普通に生活を続けて欲しいと思っているだろうし、俺も仕事を普通に続けていました。実際、姉にはそう告げていたようです。

11月中旬に、肺炎の疑いにより急遽入院となりました。父親が付き添いで、その後に俺が向かい、姉と兄がその後に来ました。入院中は姉がほぼ毎日付きっきりで居てくれました。

入院から6日後に急変したと姉から知らされます。呼吸困難が続いているようです。この時点では抗がん剤治療は行われていませんでしたが、緩和ケアに方針が切り替えられます。

夜、兄と共に面会に行くと、母親は昨日とは打って変わって荒く早い呼吸を繰り返していました。兄がトイレに行っている間に母親に少し話しかけました。辛いよなと話すと「もう、終わりにして欲しいくらい」と息も絶え絶えながら返してきました。これまでの人生で母親に世話になったことや、俺がどれだけ親不孝者であったかとか、なんでお母がこんなに苦しまなきゃいかんとか色々なものが一気に溢れてきて、俺は鼻水垂らしてひどく泣きながら「ありがとう、本当にありがとう」と繰り返し話しかけました。その時の気持ちとしては、謝罪の意味合いが強かったと思います。母親は返事こそしなかったものの久しぶりに笑顔を浮かべました。それだけで救われる気がしました。その後、兄が戻ってくると、多少話したあとに「人が居ると気が散るから、病院にも迷惑だし、帰って」と母親に言われました。こんな時でも気遣いを止めないのは、最後まで自分であり続けようとする母親の頑張りであるし、素直に従いました。もちろん本当に気が散って辛かったのだと思います。

翌日、入院から7日後です。この日は親族が集まって諸々の話を進める予定でした。母親は昨日から変わらず辛そうな呼吸を繰り返していました。昼頃から呼吸苦を取るためにモルヒネの投与が始まりました。担当の医師の方には、今月保たないだろうと告げられました。そして夕方に呼吸困難の末に心停止し、死亡しました。

そのときは俺と姉の旦那しか病室におらず、姉はトイレに行っている時でした。母親の息が徐々に荒くなり、呼び掛けに反応を返さなくなった為、すぐにナースコールを押しました。看護師にそれを伝えると「あぁ……」と上ずった声を出しながら慌てて病室を出ていき、他の看護師が集まってきました。このときの看護師達の様子から、もう助からないんだなと感じたことをよく覚えています。部屋にいる全員で呼びかけ続けますが、母親の呼吸がゆっくりになっていき、やがてモニターの心拍が止まりました。姉も旦那に呼ばれてすぐに駆け付けてきました。姉は大声でお母さん、お母さんと必死に母親を呼び続けていました。姉が母親の身体を揺すると心拍計が反応しました。まだ生きている気がしました。姉はずっと泣き叫んでおり、それをなだめながら、苦しくなくなって良かったなとか、病院にも看護師さんにも医師の人にも世話になったなとか、兄貴達やお婆ちゃんは死に目を見れなくて可哀想だなとか、そういうことを考えていました。泣き叫ぶ気にはなりませんでした。ただ母親の死に際の気持ちを知りたかったです。これは一生引きずっていくと思います。

少し後に嫁と兄貴と婆ちゃん、母親の妹の家族が集まり、再び泣き声だらけになりました。ただ婆ちゃんだけは泣かず、場の雰囲気を保ってくれていました。年の功とはこのことかと実感しました。

兄貴は二人おり、上の兄は出張で国外に飛んでいた為、兄貴(上)は翌日の午前に母親の遺体と対面することになりました。思い立ったらすぐ行動に移す、揉め事や金の問題ばかり起こしているしょうもない親不孝の兄貴なのですが、安置所に到着するなり、線香をあげるよりも先に枕元に行き、その顔を無言で見つめる後ろ姿はとても印象深く、男らしいとまで思いました。あんたもやはりこの母親の子だなとか、最後に話できなかったのは一生引きずっていくし辛いなとか考えていました。

そこから葬儀屋に連絡が付くと色々なことが進み、気付けば人生で一番忙しい5日間が過ぎていました。

俺の父親は養父である為、様々な問題もあり離縁届を提出し、受理されました。これにて俺の実家はきれいさっぱり無くなりました。

もう母親とツーリング行けないんだなとか、正月に帰るところは無いんだなとか、母親が作るおせち食えないのかとか、まだ就職して2年目なのに大した恩返しも出来てねえ馬鹿とか、あれをしなかったこれをしておけばと、後悔してもしきれない日々が続いています。それが自然な感情だと思います。

母親ですが、今年頭(2月)の健康診断では異常無しと診断されていました。レントゲンでは見つけられなかったのかもしれません。人間ドックなら見つけられたのかもしれません。これも母親は悔しかっただろうと思います。

ふとした瞬間に母親の死ぬ瞬間を鮮明に思い出し、強烈に辛くなります。あれを思うと、むしろ急変して一日で死ねて良かったのかなと思うこともあります。

もう一度実家に帰ってどうでもいい話をしてえなあ。